GUI(グラフィカルユーザーインタフェース)を採用したOSが稼働する世界初のパソコン『Alto(アルト)』をご存じでしょうか?
Altoが登場したのはなんと1973年のこと。これを開発したのがパロアルト研究所(Palo Alto Research Center Inc.)です。
パロアルト研究所では、現在のコンピュータに繋がる画期的な研究とドラマを生み出してきました。そこで今回は、パロアルト研究所について簡単にまとめてみたいと思います。
- もくじ
1.「パロアルト研究所」とは?
パロアルト研究所(Palo Alto Research Center Inc.)、略称「PARC」は、アメリカのカリフォルニア州パロアルトにある研究所です。1970年に複写機で有名なゼロックス(XEROX)が設立しました。
PARCは、コンピュータ関連で画期的な実績を次々とあげたことで知られています。例えば、GUI(グラフィカルユーザーインタフェース)やイーサネット、レーザープリンタ、ワープロ(Bravoなど)、知的システムなどが代表的なものです。皆さんがよく使用されている「カット」、「コピー」、「ペースト」といったソフトウェアのコピペ系の操作体系もパロアルト研究所で生まれたというのですから実績の幅広さには驚くしかありません。
1973年3月には、世界初のGUI(グラフィカルユーザーインタフェース)を採用したOSが稼働するパソコン『Alto(アルト)』を稼働させて世界中のコンピュータ技術者に多大な影響を与えました。
PARCにはACM A・M・チューリング賞を受賞したアラン・ケイ(Alan Curtis Kay)氏やバトラー・ランプソン(Butler W. Lampson)氏をはじめ、伝説的な著名研究員たちが数多く在籍し、研究所を離れてからも、主にコンピュータ分野で目覚ましい活躍をしたことでも知られています。
有名な事例のひとつとして、出身者のチャールズ・ゲシキ(Charles M. Geschke)氏とジョン・ワーノック(John Warnock)氏がアドビシステムズ(現 Adobe)を設立したことがあげられます。
こういった、さまざまな"伝説"に彩られ、確実に現在のコンピュータテクノロジーの進化に大きな影響を与えたのがゼロックス・パロアルト研究所(PARC)なのです。
2.「パロアルト研究所」の主な歴史
2-1 「Alto」でGUI革命のきっかけを作った
パロアルト研究所は、前述したように1960年代末から準備がはじまり、1970年に設立されました。活動初期の大きな業績のひとつとして、コンピュータの操作性、ユーザーインタフェースを大きく変革したことがあげられます。
1970年代には、アラン・ケイ氏が率いる研究チームが、ウィンドウを用いた革新的なGUI(グラフィカルユーザーインタフェース)を開発します。これによってコンピュータの操作が直感的になり、一般の人々にも利用できるようになりました。
1973年3月には、世界初のGUI(グラフィカルユーザーインタフェース)を採用したOSが稼働するパソコン『Alto(アルト)』を稼働させます。『Alto』には、現在のパーソナルコンピュータの要素がほぼ揃っていて、「AltoがなければWindowsやMacは生まれなかった」といわれるほどコンピュータ史に大きなインパクトを与えました。
GUIの操作にはマウスが必要です。マウスは1968年にSRI(スタンフォード研究所)の研究員ダグラス・エンゲルバート氏(Douglas Carl Engelbart)が発明してSRIが特許を取得し、パロアルト研究所がこれを採用した形です。エンゲルバート氏がロイヤリティを受け取ることはなかったとされています(特許自体、広く普及する前に失効していたようです)。エンゲルバート氏は「人間の知性を増強する」ことを考えており、その一端としてマウスを発明しました。
マウスの開発には、SRIからPARKに移ったビル・イングリッシュ(William Kirk English)氏が大きく関わっています。マウスはPARKのイングリッシュ氏やケイ氏によって改良を加えられていきました。
「Alto」を見学したスティーブ・ジョブズ氏はこのアイデアに触発され、Appleはパーソナルコンピュータの「Lisa」や後継となる「Macintosh」を開発しました。「Alto」は2,000台ほど作られたようですが、市販はされませんでした。これはのちにゼロックスの判断ミスではないかと一部ではいわれたようです。
のちに「Alto」は2004年に「チャールズ・スターク・ドレイパー賞(工学分野におけるノーベル賞級の栄誉ある賞。全米技術アカデミーによって授与される)」を受賞したのをはじめ、数多くの賞を受賞しました。
※2004年の「チャールズ・スターク・ドレイパー賞」をAlto 開発で受賞したのはロバート・テイラー(Robert W. Taylor)氏、チャールズ・サッカー(Charles P. Thacker)氏、ケイ氏、ランプソン氏です。
2-2 イーサネットとネットワーキングの革新
パロアルト研究所では、コンピュータ同士を接続するための通信規格であるイーサネット(Ethernet)が作られています。ハワイ大学が開発したシステム(ALOHAシステム)のアイデアをもとに1972年から1973年にロバート・メトカーフ(Robert Metcalfe)氏を中心とするメンバーにより開発され、1973年5月に特許登録されています。ちなみに、「イーサ(ether)」の由来は架空の物質エーテル(aether/ether)だそうです。
イーサネットによって大規模な情報共有と通信が可能になり、後にインターネットの基盤として重要なものになっていきます。「インターネット革命」に繋がる革新的な創造でした。「Alto」には、イーサネットベースのローカルネットワーキングシステムが装備されていました。
メトカーフ氏はネットワーク通信の価値を表す「メトカーフの法則」でも知られます。PARCを離れた後、1979年にコンピュータネットワーク関連製品を製造販売する「3Com(スリーコム)」を創業しています。
2-3 レーザープリンタとデスクトップ出力の進化
レーザープリンタもパロアルト研究所で生まれました。ゲイリー・スタークウェザー(Gary Keith Starkweather)氏は、1969年にレーザープリンタを考案し、PARCで共同研究の上、1971年に完成させました。高品質な印刷を可能にするレーザープリンタの開発により、パソコン環境でも出力物の品質が大幅に向上し、文書作成やデザインの分野の発展に大きく貢献することになりました。
上述した「Alto」では、ネットワークベースでレーザープリンタを利用することができました。
レーザープリンタ用のページ記述言語を開発したジョン・ワーノック氏、チャールズ・ゲシキ氏らは前述したように、その後、PARCを離れ、アドビシステムズ(現アドビ)を創業しました。
2-4 ワープロ『Bravo』から"Office"革命もはじまった
1972年からパロアルト研究所に勤務したチャールズ・シモニー(Charles Simonyi)氏は、1974年にランプソン氏と世界初のWYSIWYG(What You See Is What You Get=ディスプレイ表示と印字が一致する)ワードプロセッサー『Bravo』を開発しました。印刷結果をイメージしながら文書を作成できるようになる、文書作成効率が大幅に向上する画期的なソフトウェアでした。「Bravo」は「Alto」に搭載され、注目を集めます。
シモニー氏はのちにMicrosoftに移り、表計算ソフト『Multiplan』と『Excel』、ワープロ『Word』を開発します。2007年4月には民間宇宙旅行者として、ロシアの宇宙船で国際宇宙ステーション(ISS)に行ったことで話題になりました。
2-5 あの基本操作もパロアルト研究所で誕生
現在、最もよく使われているコンピュータのコマンド「カット」「コピー」「ペースト」を考案したのはパロアルト研究所在籍時のラリー・テスラー(Lawrence Gordon Tesler)氏です。
「Bravo」の後継となる「Gypsy」は、それまで主流だった「モード」による操作の多くを排除し、GUIとマウスによるインタフェースを本格的に採用した最初のソフトウェアとされています。のちにテスラー氏本人による「Gypsy」の操作動画がYoutubeで公開されました。本人によるものでとても興味深い内容です。
テスラー氏はその後、Appleに移り、LisaやMacintoshの開発に携わり、Newton MessagePadの開発責任者にもなっています。また、半導体企業ARMの初代CEOを務めました。モードを無くすことが重要だと考えていた一人で、X(旧Twitter)アカウント名も「@nomodes」とストレートです。
3.傑出した研究者が集まっていたのは何故?
3-1 ロバート・テイラー氏のリーダーシップ
ここまで述べてきたように、パロアルト研究所には、数多くの優秀な研究者が集っています。これは、創始者の一人であるロバート・テイラー(Robert W. Taylor)氏の高いビジョンとリーダーシップによるところが大きいといわれています。
テイラー氏は、テクノロジーとコミュニケーションの融合による革命を提唱し、コンピュータはテクノロジーではなく、コミュニケーションというスローガンを掲げて、GUIやネットワーキングの進化を後押ししていました。
1999年に、テイラー氏はアメリカ国家技術賞(革新的で重要な技術の開発に多大な貢献をした発明家に対して大統領から授与される賞)を「情報技術開発分野での目覚ましいリーダーシップ」で受賞しています。
3-2 アラン・ケイ氏の「ダイナブック」構想
アラン・ケイ氏は、GUIの開発で重要な役割を果たしており、氏のビジョンは、現在も多くの人々に影響を与え続けています。
理想のパーソナルコンピュータ(パソコン)を提唱し、1972年には、著書でダイナミックメディア機能を備えた本のようなデバイスとして「ダイナブック(Dynabook)としました。ダイナブックは、最終的にはGUIを搭載した片手で持てる購入しやすいコンピュータとして1977年の論文で仕様の詳細が記されています。
ケイ氏はパロアルト研究所で「Smalltalk(スモールトーク)」と呼ばれる統合環境とそれをもとにしたGUI環境の開発をリードしました。当時の技術で実現可能な範囲で試作した「暫定ダイナブック(Interim Dynabook)」が「Alto」と「Smalltalk」です。この構想を核にPARCに人が集っていたように見えてしまう流れもあります。
余談ですが、後日、AppleがMacintoshを発表したとき、ケイ氏はこれを好意的に評しました。また、iPhone登場時のコメントから、一部ではiPadがダイナブックに現時点で最も近いデバイスなのではないかと考えられているようです。
日本では、この構想に影響をうけて、東芝がノートパソコンに「ダイナブック」(現:Dynabook株式会社)と名付けたことでも話題となりました。
4.「パロアルト研究所」が世界に与えた影響
4-1 スピンオフ企業は著名企業だらけ
ここまでざっと概観しただけでも、パロアルト研究所の影響力の巨大さがお分かりいただけると思います。そして、研究成果などをもとに多くのスピンオフ企業が誕生しています。上で述べた「3Com(スリーコム)」や「アドビ」が有名な事例です。
ワープロ「Bravo」を開発したシモニー氏がMicrosoftに移り、「Excel」「Word」を開発するなど、研究員が移籍先でも活躍する事例が多いのも特徴です。
4-2 GUI革命の先駆者として
パロアルト研究所のGUI開発の成果は「Alto」という非常にわかりやすい形でまとまり、コンセプトやビジョンを明確に示したことで世界中に多大な影響を及ぼしました。
GUI革命によってコンピュータの操作性は大幅に向上し、コンピュータに詳しくない人々もコンピュータ・パワーを活用することができるようになりました。PARCはデジタル革命(第三次産業革命)の進展に大きく貢献しています。
4-3 入出力デバイスを進化させた
パロアルト研究所が実現したイーサネットやレーザープリンタやWYSIWYGワープロ、利便性を証明したマウスなどは、もはや現代社会にはなくてはならないものといってよいでしょう。1970年代にこれらの入出力デバイス、ソフトウェアが登場したことで、パーソナルコンピュータの基本形が出そろったということになります。
その意味で「Alto」は記念碑的存在といえます。現在、「Alto」はコンピュータ歴史博物館(カリフォルニア州)などで公開されているそうです。
5.イノベーションを連鎖させテクノロジーを進化させた研究所
パロアルト研究所の業績は、「Alto」での開発の動きがわかりやすい事例ですが、イノベーションの連鎖を生み出したことにあるといわれます。
新たなアイデアや技術が組み合わされ、さらなる発展を促すサイクルが形成され、テクノロジーを大きく進化させたのです。
1990年代ごろから、出身者たちが次々にチューリング賞などを受賞することで、そのたびにPARCの業績が報じられたことでさらに知名度をあげた一面も大きく、その意味で、どんな運営がされていたかに興味を持つ人も少なくないようです。
まとめ
パロアルト研究所は、GUI、ネットワーキング技術、レーザープリンタ、WYSIWYGなど、革新的な業績によってテクノロジーを進化させました。
それを象徴するのが「Alto」です。PARCの実績はこれから続く新たな技術の礎になっており、未来にも影響を与え続けていくことでしょう。